水野祐(@TasukuMizuno)のブログ

弁護士ですが、「リーガル・アーキテクト」という意味での法律家というつもりで生きています。Twitter: @TasukuMizuno / Lawyer / Arts and Law / Creative Commons Japan / FabCommons (FabLab Japan) / All tweets=my own views≠represent opinion of my affiliations

ブラード・ラインズ事件 -音楽の著作権とコモンズの危機

Mark Ronson「Uptown Funk」と権利主張者の増加

雑誌「ミュージック・マガジン」2016年1月号(特集ベスト・アルバム2015)に気になる記事があった。長谷川町蔵氏による記事で、マーク・ロンソンがブルーノ・マーズをヴォーカルに迎えた2015年の大ヒット曲「アップタウン・ファンク」について、楽曲の著作権に関するクレジットが当初4名だったのが、その後権利を主張する者が次々と現れ、最終的には11名にまで増加したという内容である。同氏は、このような経緯に触れ、ポップ・ミュージックの引用と共有の歴史に警鐘を鳴らしている。

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"Blurred Lines"事件

同記事において、このような事態を招くきっかけとなっていると指摘されているのが、ロビン・シック(Robin Thicke)とファレル・ウィリアムスによるヒット曲「ブラード・ラインズ(Blurred Lines)」が、マーヴィン・ゲイの著名曲「Got to Give It Up」の著作権を侵害しているとして、ゲイの遺族がシックやウィリアムスを訴え、シック/ウィリアムス側が敗訴したという事件である。

問題となった楽曲の類似部分を比較した映像があったので、聴いてみてほしい。

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この訴訟の最大の争点は、パーカッションやボーカルの声質や歌い方、シンプルに繰り返されるベースのフレーズなどの「サウンド」を構成する要素やその組み合わせで生み出されるグルーヴに楽曲の著作権が発生するか、という点である。

ゲイの遺族の代理人は、シックらがサウンド・レコーディングから生み出される音楽的な構成要素をコピーしたと著作権侵害を主張。このような楽曲の著作権侵害においてしばしば使われる類似性判定の手法(類似部分のフレーズの長さを同じ長さに調整した楽譜を並べて音の高さの一致する程度を数量的に計測する手法)は利用せず、シックの過去作にゲイの楽曲の無断引用が行われていることや、リリース当時にゲイの同曲を意識して作った等と話すインタヴュー映像などを証拠として提出した。

シックらの代理人は、「過去の判例上、楽曲の著作権の対象は譜面上に表現できる要素(ほとんどの場合メロディ+α)に限定され、パーカッションやボーカルなどが生み出すフィーリングには発生しない。いかにマーヴィン・ゲイが天才であっても、誰もジャンルやスタイル、グルーヴといったものを独占することはできないはずだ。」という旨の反論を展開した。

詳細は下記bmrの記事を参照してほしい。

bmr.jp

 

サンプリングしたわけでもなく、キーもメジャー/マイナーというコード進行も全く異なるにもかかわらず、曲のグルーヴや「雰囲気」、フィーリングが似ているという同曲が盗作扱いされれば、これはたしかにこれからの音楽家にとって多大な萎縮効果を与えることになる。ウィリアムスらの言葉を借りれば、「音楽にとって恐ろしい前例であり、クリエイティヴィティは後退することになる」ということになりかねない。

 

同事件に関する最新の下記ニュースでは、マーヴィン・ゲイの遺族は弁護士費用や訴訟費用の一部を追加で請求したことや、裁判所が以後のロイヤリティ50%を遺族に支払うよう求めたことに加え、昨年12月シックとウィリアムスが控訴したことなどが記載されている。

newschannelnebraska.com

 

「サウンド」をめぐる権利

控訴で判断が覆る可能性もあるし、ぼくも上記判決には反対の立場である。

だが、ここではあえて別の論点を指摘してみたい。

それは音楽の著作権(のうちの楽曲の著作権)が発生する部分が本当に譜面に表現できるような部分、すなわち、旋律(メロディ)、和声(ハーモニー)、リズム・テンポなどの部分に限られてしまっていいのだろうか、という点である。
楽曲の著作権の対象がなぜ譜面で表現できるような部分に限定される理由を端的に言えば、それは音楽産業が西洋音楽中心のなかで発達してきたから、と言えるだろう。

しかし、メロディなど譜面で表現できる部分という部分は有限である。現代の音楽家は、この有限性を前提に、いかにそれを再利用し、他の音楽的な要素と組み合せることによって、新しいグルーヴやフィーリング、アンビエンスといったものを生み出すか、といった勝負になっている(ここについては私見が多分に含まれているかもしれない)。

一部の敏感な音楽家たちが民族音楽などとのマッチングに新しい音楽の「活路」を見出すことが多いのは、そのような意味での西洋音楽の有限性にない、コモンズの部分に魅力を感じるのではないか、とも捉えることが可能ではないかとすら感じられる。

このように考えてみると、現代の楽曲の創作性として、グルーヴやフィーリング、アンビエンスといったものも含まれるべきだ、含まれるとしてどの程度保護されるべきか、といった検討や主張は一定の正当性を持つようにも思われる(ブラード・ラインズ事件においてゲイの遺族の代理人はこのような主張をしているわけではないようだが、ぼくがゲイ側の代理人であればこのような主張も加えるだろう)。

 後行者が自由に利用できる音楽のコモンズを確保する観点からすれば、音楽の著作権が発生する部分をむやみに拡大すべきではない。

その一方で、音楽の著作権の枠組みが譜面に代表される伝統的な西洋音楽を前提にしたままでよいのか。「サウンド」によりフォーカスが当たるようになってなってきている現在の音楽的傾向において、「サウンド」の創作性をいかに考えるべきか。

ブラード・ラインズ事件には、このような奥深い問題も潜んでいるように感じられるのである。

 

なお、「ミュージック・マガジン」2016年1月号には、拙稿「エイベックスはJASRACから離脱するのか」も掲載されているので、よろしければご覧くださいm(_ _)m

ミュージック・マガジン2016年1月号:株式会社ミュージック・マガジン

 

また、コード進行と著作権などについてより詳細に知りたい方は、以前リットーミュージックさんで書かせていただいた下記の記事などもご覧いただければ幸いです。

rittor-music.jp

 

ちょっと熱くなって書きすぎてしまった。反省。。