水野祐(@TasukuMizuno)のブログ

弁護士ですが、「リーガル・アーキテクト」という意味での法律家というつもりで生きています。Twitter: @TasukuMizuno / Lawyer / Arts and Law / Creative Commons Japan / FabCommons (FabLab Japan) / All tweets=my own views≠represent opinion of my affiliations

ステラ・マッカートニー事件判決について原告代理人が思うこと

原告代理人を務めたステラ・マッカートニー事件が3年近くの時を経て、原告敗訴で確定し、終結した。

本来、敗訴した側の代理人弁護士に語る言葉などない。

しかし、日経アーキテクチャに掲載された下記記事(有料記事)に対して様々な意見が集まっていることや、本件は当初から社会に問題提起をするために始まった訴訟であるから(法律論としては敗訴する可能性も相当程度あることを見越していたから)、原告代理人の一人として少しだけ言葉を足すことをお許しいただきたい。

 

kenplatz.nikkeibp.co.jp

 

原告設計が表現ではなく、アイデアであるとされた点について

本件の争点は、原告による設計資料(上記記事のなかでその一部が確認できる)および模型から成る原告設計が著作物に該当するか否かに集約される。

著作物性は、①(アイデアではなく)具体的な表現であり、かつ、②(ありふれた表現といえず)創作性を有する場合に認められる。

地裁、高裁判決は、設計資料および模型からなる原告設計は、外観ファサード白色の同一形状の二層三方向の立体的な組亀甲柄を等間隔で同一方向に配置、配列するとのアイデアを提供したものにすぎないと認定した。

つまり、原告は、二次元の設計資料および三次元の模型という具体的な形で原告設計を提案しているにもかかわらず、これが具体的な表現とまでいえない認定された(上記①の論点)。

主な理由は、設計資料にピッチや密度、幅について数値の記載がないこと等により具体性が欠けていることである。

この点が法律論としての地裁・高裁判決の最大の問題点だと考えるが、具体的な数値による寸法がないとはいえ、おおよそのサイズがわかる形で一般人が看取することのできる本件建物の外観を、視覚的に具体性をもった資料や模型から成る原告設計が著作権法上の「表現」にすら該当しないという判断は理解に苦しむ(後述するように、ありふれた表現であるという認定であればわからなくもない)。

ピッチや密度、幅についての具体的な数値は、あくまで紙面(二次元)から三次元にする際の制作方法に関する記載であって、これらの記載がなくとも、紙面上で具体的な形状が示されていれば、創作者の思想または感情が表(現)われており、感得できる。

さらに、本件では、模型によって三次元にした外装スクリ ーンの形状も具体的に制作していたのであって、ピッチや密度、 幅について具体的な数値の記載が図面上されていなくとも、具体的な外観ファサードに関する創作者の思想または感情は感得できるので、少なくとも「表現」ではあるというべきではないだろうか。

地裁、高裁判決は、建築という機能的な要素が多くを占める創作物のなかで、外観ファサードという最も美観が重視される要素(言葉を換えれば著作権の保護対象とされる要請の強い要素)についても、建物を観る一般人の視点から表現上の本質的特徴を検討するのではなく、設計図上の数値の記載といった本件建物外観の本質的特徴とはいえない、制作方法や機能的・工法的な面を重視するものであって、「表現」を保護する著作権法の精神に悖るものではないか、というのが原告代理人の見解である。

建築、殊に商業施設においては、外観ファサードが集客に結びつくとして、大手ゼネコンや設計事務所は外観ファサードのデザインにしのぎを削っている。

建築業界において「ファサードの時代」などと言われて、すでに久しい。

このような時代背景のなかで、大手ゼネコン・設計事務所はそのデザインのコンセプト、アイデア、基本設計を個人のアトリエ系の建築士やデザイナーに求めることも多い。

本件では、仮に具体的な設計資料および模型から成る原告設計が、具体的な寸法の記載や精緻な全体模型がないことを理由に著作物性が認められないとすれば、このような大手のフリーライドを容易に看過することになると訴えたが、残念ながら裁判所は認めなかった。

 

ありふれた表現か否かについて

地裁判決では、上記①の論点に加え、仮に原告設計が具体的な表現だとしても、ありふれた表現であると認定している(上記②の論点)。

この点については、原告は、

①具体的な立体形状の組亀甲柄を外観ファサードに適用したこと

②外観ファサード上部の色が白一色であること

③格子をなる全ての直線には、中央の線などの模様が一切ないこと

④格子が直線からなっており各直線の太さが一定であること

⑤正六角形を連ねているが、編み込みを立体化することによって、頂点とそこから伸びる3方向の直線が最小構成単位として目立つようにデザインされていること

⑥上記最小構成単位がそれぞれ分離しているのではなく、一面のパネルとして連続しており、かつ編み込まれたように2層構造となっていること

⑦素材としてアルミダイキャストを選択したこと

⑧正六角形の各頂点について、外側の頂点と内側の頂点が生じ、その間に隙間を生じている

⑨頂点が平らにしたこと(別の表現としては、頂点を尖らせたりすることが考えうる)

⑩外側に頂点を置く組亀甲の最小構成単位と内側に頂点を置く最小構成単位が重なってできた隙間の裏側から光をあてているため、当該隙間から光が出ること

⑪建物外観上部のみを立体形状の組亀甲にし、下部のガラス面は残していること

⑫立体形状部分で建物の北西から、南西、南東の一部まで周りを覆っていること

⑬建物外観上部の立体形状部分が建物外観下部よりも道路側に出た形で設置されていること

という13項目に原告の設計・デザイン業務を分解し、原告代表者が様々な選択肢があるなかで原告設計のデザインを選び取っていった過程の主張立証を試みた。

だが、裁判所はこれを採用しなかった。

正直に言って、訴訟提起前から、ありふれた表現であるとして、この論点で著作物性が認められない可能性は相当程度あると考えていた。

個人的には、設計資料および模型から成る原告設計は、「具体的な表現」であるが、ありふれた表現であるか否かという点については両論あり得ると考えている。

ただ、ありふれた表現であるとするならば、上記13項目に及ぶ選択と判断の過程について、それらがありふれたものであることを判決には説得的に論じてほしかった。

地裁判決によれば、本件建物は建築の著作物であると認定されているが、裁判所は原告設計に表れている特徴を除いたどの部分に創作性な表現をみたのだろうか。

それは著作権法における創作性を評価する対象として正しかったのであろうか。

余談になるが、本件建物の横に建てられた、ヘルツォーク・ド・ムーロンがデザインし、被告竹中が実施設計・施工したミュウ・ミュウ青山店のヘルツォーク&ド・ムーロンによるスケッチや具体的寸法が入っていない簡易図面のようなものが冊子の形で存在している。

裁判所としては、そのスケッチもやはり「表現」ではなく、著作物性ではないのだろうか。

ミュウミュウ青山店については、被告竹中のウェブサイト等において、「デザインコンサルタント」としてヘルツォーク&ド・ムーロンのクレジットが表示されている。

被告竹中のウェブサイトには「基本設計」のクレジットはないが、あえて「デザインコンサルタント」という言葉を使っているところをみると、おそらくヘルツォーク&ド・ムーロンミュウミュウ青山店においては基本設計に近い部分まではやっているだろうが、基本設計までは担当していないのではないだろうか(これは筆者の推察である)。

 

www.takenaka.co.jp

 

原告設計に著作物性を認めることの弊害について

仮に原告設計に著作物性を認める結論を採用すると、 広く建物の外観に著作物性を認めることになり、似たような建物が建築できなくなり、写真や映像に利用する場合に逐一著作権法の権利制限規定に該当するかを検討しなければならなくなる等、不都合がある のではないか、という批判はあり得るだろう。

しかし、当然のことながら、原告は、原告設計に著作物性を認めることを主張しているのであって、 建物の外観一般に著作物性を認めるべきと主張したものではない。

また、著作権法46条は、「建築の著作物」について「建築により複製し、又はその複製物の譲渡により公衆に提供する場合」(同第2号)を除いて、利用することができると定めている。

すなわち、原告設計において表現された建物について「建築の著作物」性を認めたとしても、制限されるのは同一の建物を建築し、又はそれを譲渡する行為のみであり、不都合は少ない。

 

類似性について

高裁判決では、地裁判決では明示的に述べられていない類似性についても、「仮に原告設計資料および模型に現れた外装スクリーン部分の表現そのもの(図案)に関して、「建築の著作物」に限らず、何らかの著作物性(創作性)を認めうるとしても」という仮定文で、触れている。
高裁判決は、立体格子の柄、向き、ピッチ、幅、隙間、方向の相違から「全体として表現や見る者に与える印象が全くことなる」と判断しているが、本件建物に接する一般人から見て本当にそう言えるのか、疑問である。
高裁判決が評価しているポイントはデザイン上の技術的工夫であったり、視覚的な洗練さや改良にあたる部分であるからである(もっとも、地裁・高裁の著作物性の判断を前提とすれば、類似性についてもこのような判断になるのは理解はできる)。
 

共同著作物の主張について

これは主に法律家向けになるが、上記記事では、原告は共同著作物の主張のみをしているように読めるが、実際には共同著作物の主張に加えて、二次的著作物の主張や外観ファサードのみを単なる著作物と捉える主張も主張している。

すなわち、「建築の著作物」(著作権法第10条第1項第5号)の一部であるという主張とともに、外観ファサード単体をとって「美術の著作物」(同法第10条第1項第4号)あるいは単に「美術」(同法第2条第1項第1号)の範囲に属する著作物であるという主張をしている。

共同著作物を第一の主張に構成した点については、共同の意思を含む共同性認定のハードルを考えれば批判があるところだと思われる。

だが、訴訟戦略として、裁判所が外観ファサードのみをシンプルに著作物として認定してくれるか、という点について、私はどうしても否定的にならざるを得なかった。

一方で、建物全体の一部として外観ファサードとして捉えるほうが自然であるし、建物全体として著作物であるという点は比較的認められやすいと考え(実際に第一審は(なぜか事実認定部分において)本件建物全体について建築の著作物性を認定している)、建物全体の著作物性に目を向けさせたうえで、その全体性の「残像」により、二次的著作物を認定させたい、というのが原告代理人が描いた訴訟の出口戦略であった(共同性は厳しいと考えていた)。

ただ、先述したとおり、原告設計の著作物性の認定において、図面の著作物性の判断要素に見られるような機能的側面を重視して認定されてしまったことに鑑みれば、結果論としては、外観ファサードのみを捉えて著作物性を主張したほうがよかったのかもしれない(上述のとおり、外観ファサードのみを捉えた著作物性の主張もしているので、これによって結果が変わったかと言われればそうではないのだろうが、少なくとも寸法云々で「表現」ですらない、と切られる結果にはならなかったかもしれない)。

 

和解勧告に応じなかった被告竹中

もう一点、どうしても触れておきたい点がある。

本件は、著作者人格権侵害に基づく差止や謝罪広告の請求とともに、慰謝料として300万円の損害賠償を請求しているが、お金を求める訴訟ではなかった。

地裁では、裁判所による和解勧告がなされたが、その内容は、金銭的補償はなし、だが被告竹中に対して外観ファサードについて設計またはデザイン原案でもいいので、原告について何らかのクレジット表記を求める、という内容であった。

本件では、被告竹中のチーフデザイナーが原告設計資料を打ち合わせの場で確認したこと、二層三方向の立体的な組亀甲柄を等間隔で同一方向に配置するデザインはこの打ち合わせ前の被告竹中の提案には出てきていなかったこと、施主が被告竹中に対して外観ファサードに組亀甲柄のデザインを採用するよう改めて依頼したこと、は少なくとも事実として認定されている。

実際、原告が望んでいたことは本建物の設計・デザインについて被告竹中の関与を否定し、我が物にしたいということではなかった。

原告代表者が最終的な本件建物の設計・施工の完成度を高く評価していることは下記インタビュー記事でもわかる。

 

kenplatz.nikkeibp.co.jp

 

原告が求めたことは、一人のクリエイターとしてデザインが高く評価された本件建物の一部に関与・寄与したことを認めてほしい、というただそれだけだった。

しかし、被告竹中はこれらの和解勧告に一切応じなかった。

このような原告の些細な要望を法的に叶えるためには、本件建物の外観ファサードもとい原告設計の著作物性が肯定される必要があるというのが、著作権法という法律の限界である。

上記和解勧告にも一切応じない被告竹中が、そこまでして守りたかったものは果たして何だったのだろうか。

そして、そのようにして守ろうとしたものは、本当に守れたのだろうか。

 

さいごに

本件がここまで拗れてしまった原因が、施主の振る舞いにあることに異論は少ないだろう。

念のために付言すると、施主はエーエイチアイという会社であり、ステラ・マッカトニーは単なるテナントである(ある意味で本件の最大の被害者とも言える)。

設計や監修として外部で関わるクリエイターにとって、事前に権利の所在やクレジット等について取り決めを行い、それを契約書などの書面で残しておくことの大切さもまた自明である(ヘルツォーク&ド・ムーロンの契約書にはクレジットに関する記載がしっかり入っているはずだ)。

日本では珍しく建築に関する著作権が争われた本件が、今後幅広い議論の契機となることを望む。

それこそが本件訴訟の目的だったからである。

 

「少し言葉を足す」と言いながら、結局だいぶ長くなってしまった。

最高裁への上告はしないことを決めた最後の打ち合わせで、私は原告の代表者である照井さんに自らの力不足を詫びた。

照井さんは「裁判所の判断には失望したけど、テレビで問題提起もできたし、悔いはない」と即答してくれた。

その清々しさと本件の経験を内に刻んで、私も前を向いて進んでいきたい。