テレビを前にして
テレビ論のマスターピースとされる萩元晴彦、村木良彦、今野勉『お前はただの現在にすぎない −テレビになにが可能か』において、テレビはジャズに喩えられている。
ジャズのように、即興で、インタラクティブな「現在性」こそが、テレビの可能性であると唱えられたわけである。
しかしながら、周知の通り、このような「現在性」は、インターネットの普及、より具体的に言えばソーシャル・メディア、Netflix、huluのようなオンデマンド、ストリーミング・サービスなどの普及により、もはやテレビの可能性とは言えなくなっている。
それでは、いまテレビの可能性とは何なのだろうか?
テレビはその大衆性により、わかりやすさに流れ、撮影や取材の対象の複雑さや豊かさを矮小化し、あっという間に消費してしまう(もちろん、これはあらゆるメディアに言えることであるが、テレビではその傾向が先鋭化する)。
同じく、テレビはその大衆性により、クレームの対象となり、結果として自主規制が進み、表現がいとも簡単に萎縮する。
ぼくは、このようなテレビが好きではない。
テレビマンたちは、これだけ多くの人に届けられるメディアはない、と口を揃えて言う。
だが、多くの人に届くというのはこれまで築いてきたテレビの結果であって、可能性ではない。これからますます「テレビだから多くの人に届く」ということはなくなっていくだろう。
テレビは、その大衆性にこそ価値がある、という声がある。
これは説得力があるようにも思えるが、その大衆性により「時代」や「空気」を作る(あるいは作られる)ことに果たしてどれだけの意味があるのか、わかるようで、よくわからない。
ぼくには、これらのテレビの特性として挙げられる事由が、ある「時代」や「空気」を共有しているように感じられた20世紀的な、昭和的なノスタルジーにも見えてしまう。
「クリエイターを守る」という杓子定規な言葉とは裏腹に、現代の創作環境は複雑化している。クリエイターを「守る」ことがそのままクリエイターやクリエイティブ環境のためにならない、という一筋縄ではいかない状況について、ぼくは自覚をもって活動しているつもりである。
今回、およそ半年間の取材のなかで、テレビマンたちに「なんでテレビなんですか?」「なんでわかりやすくする必要があるんですか?」と問い続けた。
現代の細分化された視聴者の興味・嗜好のなかで、あえて大衆性に挑んでいる(と信じたい)彼らに、その声は届いたのだろうか。
「ジャズは死んだ」と言われて久しかったにもかかわらず、ロバート・グラスパー周りでジャズが再興している(ように見える)ように、いつかテレビにも新しい可能性が見いだされるのだろうか。
ぼく自身は、そんなことを考えながら、テレビを前にしている。